街の活性化に頑張っている方々と 永井まさととの対談を連載でご紹介する「ザ・対談」です。 様々なジャンルをインタビューしますのでお楽しみに。
永井 デビット佐藤さんとは観音崎京急ホテルで砲台カレーをやっているときにお会いしました。お若いし、私が持っている歴史研究家というイメージとはかけ離れているというのが第一印象でした。今日はよろしくお願いします。
佐藤 よろしくお願いします。実はそんなに若くないんですよ(笑)。
永井 若いということにしておきましょう(笑)。早速ですが、デビットさんが東京湾要塞を研究するようになったきっかけはなんだったんでしょう?
佐藤 きっかけは一冊の本でした。たしか「三浦半島城郭史」という築城史の本ですが、江戸時代のお城ではなく、江戸時代後期に台場ができて、次に明治になって砲台ができて、太平洋戦争まで、つまり台場以降の要塞建築に関する本です。私も小さい頃は海や山で遊んでいて、防空壕があちらこちらにありますよね、そういうところに入って良く友達と遊んでいました。大人になってからですが、前述の本をたまたま見つけて読んだのです。歴史は好きだったので。すると、子供の頃に防空壕だと思っていた洞窟は防空壕ばかりではないことがわかってきました。実は本土決戦のときに旧日本軍が作った陣地ということで、場所なども載っていたので、それで太平洋戦争の関係のものから調べ始めました。今はどうなっているんだろうと。
永井 なるほど。子供の頃から慣れ親しんでいた洞穴が実は様々に計算された軍の施設であることを発見して興味が出てきたんですね。
佐藤 そうなんです。当時はインターネットでも、そういう情報はほとんど載っていなくて、たまに廃墟マニアのような人が情報をあげている程度でした。調べていくうちに、これは多くの人に知ってもらう必要があると思うようになりました。それでまずホームページを作りました。
永井 そうなんですね。反応はあったんですか?
佐藤 当時はホームページに掲示板というのがあって、そこそこ反応はありましたね。次に観音崎の砲台を力を入れて調べていたので、ガイドツアーをやってみようと思い立ったのです。
永井 ご自分から提案したんですね。
佐藤 はい、10年ほど前にガイドをやり始めました。これはもうライフワークになりましたね。やっているうちにコミュニティセンターなどからも声がかかって…。
永井 今ではデビットさんの講座やフィールドワークは予約が取れないほど人気ですよね。最初は何人くらいから始めたんでしょうか。
佐藤 15人くらいから始めて、今では20〜25人で回ることが多いですね。あまり多すぎるとガイドが行き届かなくなります。観音崎公園の方にも協力してもらっています。
永井 デビットさんは、観音崎への特別な思い入れがあるという話を聞いているのですが、どんなことか教えてください。
佐藤 観音崎は戦時中は一般人立ち入り禁止でしたし、戦後も民間が何か手を加えることもできませんでした。そのため砲台は手付かずで今まで残ってきたのです。公園整備のために一部手が加えられた箇所もありますが、非常に貴重な遺産です。観音崎には9つの砲台が作られましたが、そのうち第1、第2砲台は、西洋式築城技術を用いて作られた日本初の砲台なんです。これはすごいことです。
永井 近くに住んでいながらほとんど知りませんでした。私もカブスカウトをやっていた時分によく観音崎を散策したものですが、明治の戦争遺構と言っても、それがそこにあるのが当たり前すぎて、どういう価値があるのか、どういう意味があるのかを考えたこともありませんでした。
佐藤 それが普通だと思いますよ。私もそうでしたから。でも段々とわかってくると凄いなとなります。ところで観音崎にはもう一つ日本初があります。こちらは比較的知られていると思いますが、わかりますか?
永井 観音埼灯台ですね。
佐藤 そうです。観音埼灯台は日本初の西洋式灯台で、幕府がフランス人技師のフランソワ・レオンス・ヴェルニーに依頼して建設した灯台です。実際は横須賀製鉄所建設課長のルイ・フェリックス・フロランがその任にあたりました。
永井 そう考えると観音崎はすごいところですね。
佐藤 日本初の西洋式灯台、日本初の西洋式築城技術の砲台。この2つの日本初は観音崎公園の他にはないステータスだと思っています。もっともっと知られていい事実です。
永井 地元の方々をはじめ、多くの方々にその価値を正しく知ってもらうことで、この街の魅力を感じていただきたいですね。
佐藤 そうですね。私もライフワークですので少しでも協力できればと思っています。
永井 地域活性化へのヒントをいただいたと思いますが、デビットさんは観音崎の価値をどのように活用していくかについて何かお考えはありますか?
佐藤 私自身は地域活性化として始めたわけではなく、こういうものがあるのにもったいないな、と思っていたんですね。
永井 これだけ手付かずで残っていたのにも関わらず、あまり注目されずにきている戦争遺構というものに対して、やはり多くの人の興味の対象ではなかったということなんでしょうね。
佐藤 戦争に対するアレルギーもあったと思います。
永井 なるほど、こうした戦争遺構を観光などに活用しようというのは、戦争というものを客観的に見られるようになってきたということなんでしょうか。
佐藤 それはあるかもしれません。戦争に対してアレルギーが大きかったですから。海軍カレーも最初は抵抗感あったようです。しかし、だんだんそうしたアレルギーが無くなって来たんですね。私の場合、横須賀市民なら知っていた方がいいだろう、と思ってやっているうちに、全国の人に知ってもらいたいと思うようになりました。そうすると、知ってもらえば横須賀に来てもらえるということになりますので、地域活性化に繋がる話になると思います。
永井 結果として地域活性化につながる部分は大きいですよね。ガイドツアーをやっていて、何か手応えや今後のことについて感じるところがあったら教えてください。
佐藤 最近思っていることは、戦争遺構の活かし方として、観光だけではなく、教育に使えないかなということです。
永井 なるほど、教育ですか。
佐藤 平和教育です。そして、教育旅行、つまり修学旅行につながっていけばいいなと思っているんです。先ほど話に出たように、戦後70年以上経って、我々が戦争について客観的に見られるようになった今こそ、横須賀で始める必要がある。なぜなら、こうした戦争遺跡が数多く残る横須賀には戦争を語り継ぐ責任があると思っているからです。ただの観光だけではなく、平和教育の材料として展開することで、修学旅行などの誘致につなげ、結果として地域活性化につながることを期待したいと思います。
永井 大事な視点だと思います。全国に向けて発信すると同時に、地元の小・中学生にももっと知ってもらいたいですね。本日は貴重なお話をありがとうございました。